気候
佐渡全体としての気候はは、佐渡沖を 暖流の 対馬海流が流れている影響により、冬季は県本土に比べて気温が1〜2度程度高く、積雪は少ない。ただし大佐渡山地の北西側の 相川地域のように、北西方向からの 季節風を受ける地域もある。夏季は周りが海のため、朝と夜の温度差は本土のそれより小さく、気温は県本土に比べ1〜2度程度涼しい。
佐渡島内を個別に見ると、気候は三分でき、大佐渡山地の北側は、日本海からの風の影響で積雪があり、小佐渡山地の南側は、比較的温暖で積雪は少ない。国仲平野はその中間くらいである。
暖流と 寒流の接点にあるため、植生にきわめて富んでおり、島内で北海道・沖縄両地方特有の植物が同居する非常に珍しい植生地域である。また、暖流にのって現れるシイラ、カツオ、アオリイカ、寒流にのって現れるブリなどの多様な水産物にも恵まれている。
歴史
鎌倉時代以降は、 本間氏が守護代として佐渡を支配していたが、1589(天正17)年に 上杉景勝の侵攻を受けて滅亡し、上杉氏の支配地となった。
関ヶ原の戦いの後、佐渡は徳川家の支配地となり、1601(慶長6年)に 佐渡金山が発見された。
佐渡では、それ以前の戦国時代中期頃から、 鶴子銀山等で銀が採掘されていたが、佐渡金山の金の産出量は群を抜いて多く、そのため江戸幕府は、藩を置かずに佐渡を 天領として 佐渡奉行所を 相川に置き、幕府自ら直接統治を行った。
明治以降は、 佐渡県(後に 相川県となる)が置かれたが、1876(明治9)年に新潟県に編入された。
文化
古くの佐渡は、京から配流された文人・政治家などが都の文化を伝えてきた。その影響により、現在でも独特の言語を含め伝統芸能が受け継がれている。また、西廻り航路が開かれ、西日本や北陸の文化が伝わってきたこと、また配流者が伝えた文化も含め、貴族文化や武家文化、町人文化が一体となって佐渡特有の文化を形成していったといわれる。
例としてあげると、 能の大成者である 世阿弥が配流された影響からか、江戸時代には200を超える 能舞台があり、現在も32余りの能舞台が残っている。人口当たりの能舞台数は、江戸時代も現在も全国一となっている。これらの能舞台は、今も、春から秋にかけ 薪能などイベントや祭りで利用されており、各地区の希望する子供達が大人から指導を受け演じている。
また、 古浄瑠璃、文弥人形、のろま人形、説教人形、獅子舞なども代々受け継がれ、現存している。
佐渡金山においては、最盛期に国内一の金産出量を誇っていたが、江戸時代の終わりごろから衰退し、1951年に商業採掘が終了したため、現在では金の採掘は行われていない。
残された多くの史跡や博物館等の資料館で当時の様子をうかがい知ることができる。
他に、順徳天皇や日蓮ゆかりの寺などの、歴史的な寺社仏閣が保存されており、こうした様々な史跡めぐりをする観光客が毎年訪れている。
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